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#忠政の急死にまつわる経緯は、前項を読んでいただきたい。
実は、忠政が桃を食した現場の大文字屋に記録が残っていた。この大文字屋は当時茶道具を扱う豪商で、茶器の収集や茶道のたしなみの深さでよく知られており、公家をはじめ諸大名も多く出入りしていた。しかし、豪商とはいえ、一介の商人に過ぎないこの大文字屋において、一人の国主大名の急死するというのは、さすがに大事件だったらしく、記録に残されていたのである。いうなれば、高級料亭を訪れた国務大臣が食後に腹を抱えてポックリ死んでしまうようなものだ。
この商家に伝わっていた「先祖記」(宝永6年大文字屋宗積著)という古文書に、忠政が死に至るまでの様子が具体的に書かれている。それによると、上洛した忠政が大文字屋宗味の屋敷に訪れたときの料理に桃が載せられてあり、これを食したところ、腹痛を起こしはじめたという。武勇者の忠政は、はじめ顔に出さなかったが次第に堪えきれなくなって、ついには顔をしかめるようになった。見かねた隣人が「腹痛ですか?」と尋ねると、忠政は「脇差で腹を切ってもこんなに痛くはないはず」と答えた。腹を切るより痛いとは、相当の苦しさである。医者はおろか、鍼灸師や外人医師まで訪れていろいろ試すが効果なく、大便も出ず嘔吐もない。そのまま息を引き取った。これには宗味も大変迷惑した。と書かれている。これは宗味の家の古文書による記載であるから、大文字屋で起こったことをありのままに記したものと思われ、森家の家伝では見られない大変興味深い記述である。
さらに森家についての研究をしている佐藤誠氏の調査報告によれば忠政の友人、細川忠興が細川家の家老、松井興長との間でやり取りした5日付の書状に、「忠政の容態は尋常ではない」との内容を知らせた書状があるという。手紙は7月12日に松井へ届いている。そして、大文字屋の「先祖記」には忠政が大文字屋を訪れたという日時には触れていない。この二つを組み合わせれば、忠政は7月5日以前に大文字屋を訪れて食中毒を起こし、苦しみの挙句、7日に没したと推測付けることができる。しかし、森家の家書「森家先代実録」には忠政は6日に大文字屋を訪れて食中毒になり、7日に卒去と書かれている。では、五日の時点で重病だった忠政が、わざわざ大文字屋を訪れて食中毒になり、7日に没したのだろうか。些か理解に苦しむところである。だが、実のところ、森家先代実録は忠政の死について余り詳しく触れていない。また、森家先代実録の成立は文化6年(1809)であるのに対し、先祖記の成立は宝永6年(1709)と1世紀も古く、そして細川忠興の書状はもちろん当時のものであるから、順序的に考えれば森家先代実録のこの箇所についての信憑性は劣ると考えるべきである。
また、毒殺説について言えば、当時、多くの諸大名が茶道をたしなんでいたことを考えれば、こうした豪商の邸宅は一種の情報集積所であり、商人であった宗味も事実上の有力者であったことは否めない。しかし、自分の家の家書に「宗味も迷惑」と素直に書いているところを見れば、将軍家光による毒殺説はまず考えられないだろう。また忠政死後、平穏に家督相続が行われて、無条件で長継を二代藩主に据えたこともそれを証明している。だが、いずれにしても桃は忠政を死に至らせた決定的要因であり、現在でも森宗家では桃と桔梗の花(森蘭丸らを討った明智光秀の家紋)がご法度となっている
ちなみに「先祖記」によると宗味の屋敷は西洞院下立売上ル町西側にあったとされ、現代の地図で見ると、忠政が息を引き取ったという宿所の妙顕寺までは直線の道で一キロ強の場所だった。
さて、このとき将軍家光の行列はすでに伏見に至っており、その迎え入れで大忙しであったため、忠政の遺骸は即日船岡山で荼毘に付されて、かつて石田光成や浅野長政とともに建立した大徳寺の塔頭、三玄院に葬られた。この船岡山は現在織田信長を祀る建勲神社が鎮座しており、古くは平安以来の火葬場であった。
忠政の引導は大徳寺の玉室宗珀和尚(1572―1641)が勤め、戒名は「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」とおくりなされた。
ちなみにこの玉室和尚は慶長13年(1608)に加賀の前田利家の室・於まつが大徳寺に塔頭芳春院を建立するときの開山として迎えられ、玉室和尚の木像が安置されている。また、寛永4年(1627)7月の紫衣事件の際には、沢庵和尚らと共に幕府に抗議をして陸奥国棚倉藩主・内藤豊前守信照に預けられて流罪になっている。寛永9年(1632)正月の徳川秀忠の死去に伴い、流罪を許されて江戸に移り、寛永11年6月になってようやく京都へ帰ることを許された。忠政の死はこの年の7月のことであり、玉室和尚の帰洛直後のことである。
忠政急死の報せは、忠政に随身していた家臣、伴半之丞によって津山にもたらされた。津山では突如の急死に大いに驚愕し、その対応に当たるために原小十郎ら三名が京都へ派遣された。江戸においては7月13日に忠政急逝の報せが届いた。忠政の死後から6日後のことである。この報せを追いかけるようにして、老中・酒井讃岐守忠勝も江戸の自邸の書状を書き送り、これを読んだ酒井家の留守居が7月16日、森家の留守居・近藤七兵衛と用人の平井平左衛門を内々に酒井邸に呼びよせて、長継を直ちに上洛させて家光に拝謁するように勧めた。忠勝は家光に供奉して京都に来ていたため、その情報をいち早く察知していたのである。長継はその3日後の19日に江戸を発っている。知らせを聞いて3日後に発つというのは、悠長なことのように感じるが、大名家の旅行となると、先々の宿所の手配などもあり、予定外の出立を3日で準備したというのは驚異的速さと考えてよい。
8月1日に京都へ到着した長継は、翌朝将軍家光の滞在する二条城に登城して家光に拝謁し、正式に美作津山18万余石の相続を認められたのである。しかし、忠政の死によって3カ国加増の話は水泡に帰し、出雲松江城は若狭小浜藩主・京極忠高が拝領する事となった。
(森勇己)
出典:森家先代実録・先祖記・細川家文書(佐藤誠報告書)他 |