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●将軍家光の上洛と忠政の急死

寛永11年(1634)。将軍将軍家光が京都へ上洛するに当たり、津山藩主の森忠政へその奉行役を命じられた。当時江戸にいた忠政は病床と称してこれを辞退するも、将軍家光は受け入れない。さらには現在の美作一国を出雲国・石見国・隠岐国の3カ国と交換して300,000石に加増させるという内約まで持ちかけてきた。寛永10年(1633)の暮れのことである。すでに断る余地のないことを悟った忠政は上洛を承諾し、明けて寛永11年5月2日、上洛する将軍家光より一足先にしぶしぶ領国の津山へと向かった。これが死出の旅路となることは夢にも思わない。
5月10日、父可成公の眠る大津来迎寺を参詣。参勤交代の途中で必ず立ち寄るのが慣例だったという。5月15日津山に到着し、1ヶ月ほどを領国で過ごして6月26日、津山を発って京都へ向かった。そして7月1日京都に到着し、京都所司代の板倉勝重の館に挨拶に訪れた。その後兄蘭丸公達の眠る阿弥陀寺や大徳寺の総見院に信長の墓所を参拝し、宿所を京都の法華宗妙顕寺に定めて滞在した。
七月六日。京都の茶道具商人、大文字屋宗味の邸宅で昼食を食べて、宿所の妙顕寺に戻る途中に嘔吐感を訴え始める。 その後加持祈祷や鍼灸を試みるも、7月7日未明に息を引き取った。六十五歳であった。大文字屋で食後に出された桃に食傷を起こしたというのが現在の定説であり、6日の午前には板倉勝重の館を訪れたというが、このときは何でもなかったという。
 7月といえば雨季であり食品の劣化が激しい季節であるから、体調不良の忠政が食傷を起こしたというのも納得できないわけでもないが、当時家臣の間ではあまりの急死に将軍家光による毒殺説が浮上していた。
 理由は二つある。一つは病床にあって、上洛を辞退していた忠政に、三十万石の三カ国加増まで持ちかけて京都上洛を命じた将軍家光。二つ目は先年遭ったばかりの亀鶴姫の急死と、嫡子忠廣が変死に将軍家光が不信感を抱いたとする説。(忠廣の正室亀鶴姫は将軍家光の義妹) また、これに関係するかは定かでないが、この頃、江戸の鳥取藩邸に池田長幸を尋ねた忠政が夜更けに帰宅する際、忠政の駕籠へ刺客が襲い掛かるという暗殺未遂事件も起きている。しかし、冷静に考察すればやはり食あたりによる病死説が強い。 


(森勇己)


出典:森家先代実録・森家盛衰記他