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寛永5年(1628)7月14日江戸城で能があって、諸大名一同で鑑賞していたら地震が起こった。大名たちは驚いて舞台前の白州まで降りてしまった。忠政の向かいに座していた嫡子忠廣も避難しようと立ちあがろうとしたが、忠政公がギッと睨みつけるので仕方なく座っていた。忠政と並んで座っていた出雲松江城主、堀尾忠晴も逃げようとしたが忠政は「すぐに治まりますから大丈夫でござる」と彼の袴を引いて留まらせた。伊達政宗も思わず逃げようとしたが、忠政親子らが座っているのを見ると我に返り、ばつが悪そうに扇を開いて白州に避難した者たちを呼び、「秀忠公の御前で見苦しいぞ。もはや揺れもおさまったので席に戻られい」と人事のように鎮めて政宗も席に戻った。この時御座を立たずに居たのは忠政親子と堀尾忠晴だけであった。忠政のお陰で失態を演じずに住んだ忠晴は翌日森家に挨拶にやってきたという。
実はこの忠晴、かねてより忠政とは昵懇の仲で、所領も近いことから交友があった。この数年後、跡継ぎのいない忠晴が死去したことで堀尾家は断絶となるが、忠晴の旧領の出雲・石見・隠岐の3カ国を美作国と引き換えに忠政に与え、事実上加増させるという話が浮上した。忠政は3カ国の国主となることを喜び、出雲国で浪人となっていた野呂や坂井など7名の浪人を家臣に取り立てた。
(森勇己)
出典:陰徳太平記・森家先代実録・森家盛衰記他 |