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●大坂の陣

忠政は慶長19年までは江戸城の石垣の普請をしていて、主な重臣も江戸にいたが、ようやく幕府から暇が出て江戸を出発する日に、老中から使いが来て侍を1人すぐ出すようにと申し渡してきた。
そこで、忠政は日下三十郎を江戸城に行かせるように命じて、自らは江戸を発った。江戸を発って2日後、滞在の本陣に飛脚が届いた。日下が呼び出されてきたのは「大阪へ出陣せよ」との沙汰であった。 忠政は津山にいる叔父で執権職の可政に飛脚を飛ばして自分が到着するまでに戦備を整えるよう指示し、自身も急いで津山へ帰国した。津山出陣に際しては、津山城の冠木門を出て仁蔵屋敷に住む嫡子忠廣に対面して出陣する旨を告げ、そして京橋を渡って大坂へ向かった。このときの忠政の馬印は「黒棒に金の丸印」であった。
11月6日と7日にかけて、中国各地から終結した諸大名の軍勢は大坂中島で合流し大坂城の天満口へ進もうとしたが、検視役で7000石の旗本で、かつて武田勝頼の侍大将であった城和泉守昌茂に差し止められ、森軍は中島に駐留することになった。この駐留は3週間以上に及び、11月30日になって、家康の上使として三河刈屋城主・水野日向守勝成が派遣され「なぜ中島に駐留し続けて天満口へ到着しないのだ」と水野が叱責すると、忠政は「検視役の指示に従っているだけである」と弁明、すると上使の水野日向守の配慮により、この駐留が解かれて天満口へ参陣することができた。そして城 昌茂は、軍令無視により罪を問われて改易となった。城がなぜ森軍の足止めをさせたのかは明らかではないが、これによって忠政の戦功の機会が半減したことは事実である。
天満に到着した忠政は退避した後の町人の屋敷を本陣とし、検視役には改易された城和泉守の替わりに、上使として派遣されてきた水野日向守がそのまま担当した。この検視役とは、軍の中枢にあって、その大将が間違いを起こしたり、裏切らないよう、その動静をつぶさに見届ける役目であり、幕府から派遣されてくる役職のことである。
そして12月24日に豊臣側と講和が成立し、家康と秀忠へ挨拶に伺った。これまでが、大坂冬の陣の経緯である。なお、東京国立博物館に収蔵されている大坂冬の陣図屏風には十字紋の旗を掲げた忠政の軍勢の姿が絵が描かれており、当時の様子を伺い知ることができる。
(森勇己)