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慶長8年3月中旬、忠政公が信濃の川中島の所領から美作の国へ転封となり、多くの家臣を連れて川中島を出発し、美作国府であった院庄に到着した。このときの美作入国に対して、領民は心よく思わなかったのである。この美作国は元は宇喜田秀家や小早川秀秋が治めていた領地であり、宇喜田や小早川が改易となった際に浪人となった地元の残党がおおく残っていたからである。忠政公は川中島から大勢の家臣を引き連れてきているために、彼等を家臣として再雇用することは考えていない。そのため彼等残党は美作の国境に集結して忠政公の一行を遮ろうとした。その数は3000人にもなったという。
既に先遣隊として川中島から一足先に来ていた森家の家臣がこれを収めようと必死に奔走し、「森家の入国を拒むことは将軍家に対する謀反であり、森家と戦うことは天下の将軍を相手にして戦うのと同じことになる」と説得し、この暴動を未然に防いだという。
後に院庄に到着してそれを聞いた忠政公も大層機嫌がよく、その処罰に付いても不問に付すと言い渡した。
(森勇己)
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