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慶長8年(1603)2月、徳川家康は、森忠政に対して信州川中島14万石から美作国18万6500石に移封する旨の朱印状を発給した。 家康が豊臣家を差し置いて大名へ発給した朱印状の第一号である。
忠政にしてみれば、兄の遺領であった川中島を離れるものの、4万石を加増された津山移封は大抜擢といえよう。忠政はただち築城地の選定を始め、当初は院庄に天守閣を建立しようとした。しかし、地の利が悪く、まもなく、古城地であった鶴山に天守閣を建てることに変更。鶴山の「鶴」が森家の家紋に通じることから、この名前を「津山」と改めた。これが現在の津山の由来である。
さて、津山城築城に当たっては、事前に他の城の参考を求め、家臣に命じて九州の小倉城を偵察させた。小倉城は忠政の友人細川忠興の居城で、当時完成したばかりの最新の建築技術とされていた。しかし、忠政は友人の忠興に見物を申し入れることを恥じて、極秘裏に家臣を潜入させようと試みた。家臣は津山の絵図師を伴って、海上から小倉城の偵察を始めるが、まもなく小倉藩の見つかるところとなり、忠政の家臣一行は城内に連行された。仔細を説明すると、まもなく細川忠興自らの尋問を受けることとなり、すべてを理解した忠興は笑ってこの一件を許したという。また、ご機嫌のあまり、自ら城内を案内し、帰国の際には小倉上の絵図面を土産に手渡したという。当時、城の絵図面を渡すという行為は、最高レベルの軍事機密であり、いかに忠政と親しかったかを物語っている。さらに、忠興の好意はこれに留まらない。津山城が完成すると、「朝顔の釣鐘」と題した南蛮様式の釣鐘を鋳造し、これを寄贈した。忠政はこれを天守閣に吊るして、時を知らせる鐘としたのである。この南蛮釣鐘は現在大阪南蛮文化館に展示されている。
(未完・森勇己)
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