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●光照と津山改易騒動

元禄10年8月、森宗家の美作津山藩主森長成の死去に伴い、その叔父の衆利が新藩主となって津山から江戸へ参勤する折、東海道の桑名縄生村で衆利が家臣を斬りつけるという乱心騒動を起こした。衆利の側近はこの事実を隠匿しようとするが、斬りつけた家臣が死に至ったため、その詳細は桑名藩によって江戸の幕閣へ通報されることになった。この報せによって森家の改易が決定し、この断を下したはずの幕閣には柳沢吉保以下、黒田直邦ら綱吉の側近があった。つまり、直邦の重臣である光照も少なからずこの状況を察知していたと思われる。だが、家譜をはじめ森家断絶に関する諸史料に、彼の動向を示す記述は残されていない。外様支藩の庶子とはいえ森宗家という国主大名家に縁繋がる者が、館林宰相の将軍襲位という偶然によって譜代大名の重臣、つまり取り潰す側の立場に転身した光照が、冷遇された外様大名、森家の落日をいかなる心境で傍観したのか、察するに重いものを感ずる。特に8月中旬、光照の父長俊は叔父の長治とともに領国津山にあり、謹慎と称して菩提所の本源寺に篭っていた。幕閣から再三の通達[転封による本領安堵]を受けながらも、父らはこれを疑う気配すら見せて江戸行きを渋った。幸い先代津山藩主の森長継[光照の祖父]の書状によって長俊と長治は江戸へ出頭し、約定どおり長俊領する津山新田藩は佐用郡三日月へ転封となって、10月11日、幕府上使として津山入りしていた一関藩主・田村右京大夫建顕によって津山城は正式に収公された。

このとき、万が一長俊や長治らが出頭せずに津山城で篭城抗戦するような事態に発展すれば、子として江戸にある光照は処罰を受け、その主筋の直邦に対しても何らかの迷惑が及んだとしても不思議ではない。
そうなれば直邦は綱吉の信を失うことになり、直邦は筆頭寵臣たる柳沢吉保に働きかけ、乱心による断絶であれば支藩などは取り潰されてもおかしくないところを、「乱心事件」を無視した無嗣断絶として支藩を残すとし、光照に対しては直邦によって津山に篭っている父らを懐柔させるよう内命をした可能性もある。

衆利乱心の報せを受け取った祖父長継は、家名存続は望めないと覚悟した。
そもそも長継の祖父忠政がこの津山を拝領したのも、前領主小早川秀明が家臣を手討するなどの乱行が元で変死に至り改易されたからであり、同じ外様として衆利がこれと同様に扱われてもおかしくはなかった。
だが、前田家や細川家、池田家といった外様の雄藩が森家の存続を支持して働きかけたこともあったようで、これらの功が奏して「罰せられて領地が召し上げられたのではない」と幕府上使の田村建顕は津山城で述べるにいたり、江戸城に呼び出された長継も、隠居料として2万石の新知を認められ、さらに支藩を領していた長俊や長治の所領も安堵されることを通達されると、赤子に戻ったように喜んだという。森家改易の理由を乱心事件として扱われなかったことを喜んだのである。直邦や光照の奔走があったかどうかは想像の域を脱しないが、少なくとも森家の家名存続には様々な工作がなされていたのは事実である。
(続)

(森勇己)


出典:森家先代実録・森家盛衰記・森氏家譜他