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経基王の邸宅跡とされる


経基王が関東に駐在
した時の館址とされる
清和天皇の第6皇子の貞純親王の子で、六孫王とも称された。
清和源氏の祖となる人物で、後に臣籍降下して源経基となる。
将門記によれば、承平8年(938)2月、武蔵介として関東に下った経基王は、権守の興世王にしたがって、武蔵国内で収奪を行い、足立郡司兼武蔵国衙判官代の武蔵武芝と対立をする。これがきっかけで平将門を関東に招く結果となり後に彼は新皇を称するようになった。ところが興世王は平将門の仲裁によって武芝と講和をしてしまい、武芝将門が与したと思い京に逃げ帰り、天慶2年(939)3月3日、将門の謀反と報告をした。
ところが都では逃げ帰ってきた経基王を、仲間割れして帰ってきた臆病者と罵られ、報告は中傷と判断されて経基王は監禁される。ところが、翌年に経基王の報告どおり将門が常陸国衙を襲撃して常陸で新皇を称したため、一躍経基王の評判は上がったという。
さらに、『扶桑略記』によると約1年後の天慶3年(940)2月8日、将門の乱鎮圧のための征夷副将軍任命されて、経基王は再び関東に派遣されるが、到着前に将門の反乱は終息してしまい、結局功績を挙げることは無かった。
将門の乱後、今度は藤原純友の反乱が勃発。このため経基王は大宰権少弐に任じられ、九州の大宰府に下向した。
天徳2年6月15日、京都において臣籍降下させられて「源」の姓を賜る。実は経基王はこのことで大変ショックを受けたらしい。源姓を賜った後も六孫王の呼称を用い続けるが、5ヵ月後の11月24日、憔悴したまま世を去ったという。
邸宅跡には六孫王神社が建立され、経基王を祭っている。

生年 延喜14年
叙位 天慶3年1月9日 従五位下
天暦8年5月15日 正五位下
臣籍降下 天徳2年6月15日 源氏を賜る
没年月日 天徳2年11月24日
橘繁古の女子、藤原敏有の女子
嫡子 満仲  満政  満季 満実 満快 満生 満重 満頼