
森長俊公木像
三日月高蔵寺森家霊屋

長俊花押

長俊自署
「森對馬」
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森長俊は慶安2年9月8日、津山藩主森長継の五男として津山城に生まれた。母は湯浅丹後の娘で偕(かい)といい、後に北之方様、継光院と呼ばれた。
幼名は松之助といい、寛文5年17歳で4代将軍徳川家綱に拝謁した。延宝2年父長継が65歳で隠居すると、兄の長武が3代目の津山藩主となった。その翌年に27歳で従五位下対馬守に除された。これは分家立藩への足固めの一つであり、更にその翌年、隠居の父、長継の依頼によって美作の領地から作州勝田北郡の中から31ヶ村、石高で1万5千石が長俊に与えられた。これを津山新田藩と称して屋敷を津山城内の薬研堀の東北に持った。しかし、このときはまだ大名として認められては居らず、正式に将軍から(事実上の大名として認められる)朱印状を拝領したのは、このときから8年後の貞享元年10月21日のことだった。この年の12月13日、丹後宮津城主永井尚長の娘を正室として迎えた。
元禄10年8月2日、津山藩4代藩主森長成が死去し、その継嗣であった関衆利が乱心して本家が取り潰されると、当時津山に居た長俊は弟の関長治と共に、藩士の動乱を防ぐために奔走し、幕府に対しては恭順の意を示して、菩提寺の本源寺に謹慎した。その後関長治と共に江戸に呼び出され、11月長俊は播磨国の三日月に封地を移され、三日月藩初代藩主となった。 陣屋を領内の乃井野に営み、藩士に絵図面の屋敷どりをさせて、さらには日岡八幡宮を鎮守社と定め、高蔵寺を菩提寺とした。
しかし、長俊は同時に江戸の鍛冶橋門の警備を命じられていたため、これを翌年の三月まで勤めたため帰国の暇が無く、さらに翌年の元禄12年3月には仙洞使の饗応役を命じられたため、三日月に帰国したのは4月になってからであった。
三日月藩を統治すること16年、正徳5年7月に67歳で嫡子の長記に譲って、江戸で隠居し、快翁と改めた。
享保20年6月4日、江戸の大崎にあった三日月藩邸にて死去。87歳だった。
遺骸は池上の本行寺に葬られ、三日月では等身大の木像が造られて、菩提寺の
高蔵寺森家霊屋に安置されている。
| 別名・官職 |
松之助・快翁
従五位下對馬守 |
| 生年月日 |
慶安2年9月8日 |
| 父 |
津山藩主 森長継 |
| 母 |
偕(北の方、継光院) |
| 没年月日 |
享保20年6月4日 87歳 |
| 法名 |
長俊院殿快翁日好大居士 |
| 葬地 |
江戸池上本行寺 |
| 室 |
(正)永井尚長の娘(離縁)
(後室)布宇
(側)伴氏 |
| 嫡子 |
松之助 長照 光照 長記 長廣 |
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