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光嶢が藩主に供奉して訪れた
大坂城(再建)


黒田直純の葬儀を執り行った
能仁寺
 享保12年9月8日森光仲の長男として下館城で生まれ、元文元年7月18日9歳の時、はじめて藩主黒田直純ニ拝謁して、行事毎に登城することのできる「召出」の資格となる。
延享2年11月15日正式に召抱えとなり、馬廻番(すなわち大名の警護役で、近習)を命じられた。扶持は金七両3人扶持で江戸藩邸での勤務となった。
寛延4年2月14日将軍の命によって大坂城の加番役となった黒田直純に従って光仲とともに大坂へ赴き、さらに直純は宝暦4年4月の徳川家康の命日には将軍の名代として日光東照宮に参拝を命じられて、光嶢もこれに同行した。日光から戻ると光嶢は給人席となって所領を与えられ、者頭と寺社奉行に就任した。明和元年1月15日に100石を加増されて用人となり、明和3年2月に光仲が没すると、光仲の家禄を相続して家老末席に就任した。安永4年12月28日、黒田直純が没した時には黒田家の菩提寺であ飯能の能仁寺に向かい、葬儀を執り行った。 この葬儀のあと、家老に就任し、天明4年には江戸家老となって、新藩主黒田直英がはじめて将軍家治に拝謁するために江戸城に同行して、将軍に拝謁した。 その二年後、将軍の命によって大坂城加番を命じられた直英に同行した光嶢は、大坂城で直英の死去に立ち会うことになり、代役の大名が到着するまで、藩主の名代としてこの加番役を務めた。役を解かれて江戸に戻ると、国家老となり、藩政を司った。寛政元年1月、弟の二郎左衛門光厚を養子とした。これは父光仲の遺命とある。恐らく嫡子が無い時は弟を立てるように遺言したのであろう。
光嶢には藩主黒田直純の12女である美喜が妻となっていたが、嫡子に恵まれず、女子が一人だけであった。

■光嶢の隠居と、快翁の襲名

 寛政12年には300石となるが享和元年5月15日隠居して快翁と号し、江戸で余生を暮らした。快翁とは、曽祖父の三日月藩祖森長俊の号であり、光嶢は長俊を日々尊敬していたという。この号がそのまま院号となって墓石に刻まれる事となった。 文化元年8月25日江戸の屋敷で没し、浄心寺に葬られている妻の墓の横にに葬られた。位牌は広徳寺と妙長寺にも安置された。 享年は77歳

■藩主の息女を妻とする。

妻で、黒田直純の12女美喜姫は、宝暦10年4月11日に婚姻して、黒田家からは年額30両の化粧料が支給された。また、黒田家の家紋の一部、木瓜紋を使うことを許されて、森家の家紋となったが、これは後に光厚によって黒田家に返上されている。
 文化13年10月1日、江戸屋敷の家老邸に若松藩家老西郷頼母が訊ねてきて面会していた時、急に卒倒し、息を引き取ったという。心臓麻痺であろうか。
 浄心寺に葬られ、位牌は黒田家菩提寺の能仁寺、と江戸の広徳寺、久留里においては妙長寺と円如寺に安置された。 法名は貞感院妙喜日光大姉

別名・官職 勇之丞 五郎兵衛
生年 享保12年9月8日下館
森 光仲
喜多村一明の息女
没年月日 文化元年8月25日 77歳
法名 快翁院光嶢日感大居士
葬地 江戸深川浄心寺
(正)藩主黒田直純の12女 美喜姫 
嫡子 貞子 光厚(弟を養子)