
光仲が築城に携わった
久留里城(復元)

久留里城築城の地鎮祭
円内が光仲

森勝蔵の描いた光仲

光仲の花押
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元禄8年7月24日江戸に生まれる(黒田家臣傳稿本には8月18日比企郡大塚村生まれ)森光照の3男で宝永3年11月17日に、兄光治の養子となった。光治はその2年後に急死していることから、体が弱かったのであろう。 宝永5年8月13日下館城主黒田直邦に拝謁して召抱えられ、月棒5口を賜る。この年の11月30日に光治が急死すると、翌月の12月13日に光治の家禄から70石を光仲が相続して給人席(領地を与えられる士分)に取り立てられ、さらに刀番を命ぜられた。
享保15年12月には者頭となって弓組の指揮を執り、100石に昇進した。
享保20年6月、祖父で三日月藩祖の森長俊の死去に伴い、主君の黒田直純に懇願して暇を頂戴して江戸に上り、池上の本行寺で49日法要と100日法要に参列した。この時、長俊の嫡子で光仲の叔父、2代三日月藩主の長記より、備前長船祐定の刀を長俊の遺品として拝領した。 元文元年7月14日には旗奉行となって、館林城の在番を命じられて館林城に赴いた。この在番が終わったあと、直純から銀3枚を頂戴した。(南総実記・黒田家臣傳稿本には料理と銀3枚)
■久留里城の築城奉行
寛保3年2月、黒田直純が久留里へ転封となると、幕府より5千両を拝領して久留里の古城をリフォームする事となり、光仲は築城奉行を命じられた。黒田家臣傳稿本によると、三の丸南櫓と本丸曲郭を造営したとある。この功績によって30石が加増されて用人となり、延享2年に城が完成すると、直純より白銀5枚と、三の丸門前に屋敷地を賜った。
■国老の地位と光仲への特別待遇
宝暦4年4月9日、家老に就任して100石を加増され、後に国老と称される。宝暦12年10月、病に倒れた光仲を直純は見舞いに訪れた、この見舞いは25回に及んだという。藩主が家臣の家を訊ねるのは非常に稀なことであり、国老と称されたゆえのことであろう。また、藩主の継嗣、黒田直亨も4度訪問したとある。
13年4月、年老いた光仲を藩主直純は気遣って、城内で駕籠を使用してよいと許可を出し、藤原国定の刀を与えた。これも異例中のことである。
しかし、光仲への特別待遇はこれで終わらない。 特記すべきはここからである。家譜によると、臨終間近となった明和3年の正月、光仲の従弟である三日月藩主森俊春の命を受けた藩主専属の典医が派遣されてきたのである。川添氏と書かれたその典医は三日月藩の記録では川副氏と書かれているが、読みは「かわぞえ」である。
だが、典医の治療も効果なく、2月15日久留里の家老屋敷で死去した。72歳。
遺骸は妙長寺に葬られ(黒田家臣傳稿本には、法華経を一文字ずつ書いた石を棺の周りに埋設したという)、位牌は妙長寺のほか、江戸の浄心寺と広徳寺に安置した。
| 別名・官職 |
勇之丞 喜平次 清太夫 |
| 生年 |
元禄8年7月24日江戸 (森氏家譜)
元禄8年8月18日比企郡大塚村 (黒田家臣傳・南総実記) |
| 父 |
森光照 |
| 母 |
光照の妾 (曾代か?) |
| 没年月日 |
明和3年2月15日 72歳 |
| 法名 |
實證院光仲日浄大居士 |
| 葬地 |
久留里 正久山妙長寺 |
| 室 |
(正)黒田家家臣 喜多村一明の息女
(妾)なし |
| 嫡子 |
光曉 栄子 琴子 光厚 光政 |
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