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森家の落日

■美作国改易と御家再興

■三日月森家と久留里森家

■美作国改易と御家再興

 しかし、長武によって独立していた長俊は分家のため、存続することを認められ、長俊は三日月(兵庫県佐用郡)に1万5千石、さらに2代領主長継が87歳で存命していたため 彼の年金代わりとして西江原(岡山県井原市)に2万石の領地を与えられた。こうして長俊と長継の2名が森家として存続した。宗家の断絶により、この2家のうちから、長継の西江原藩主森家が宗家格となった。しかし、18万石の家格は認められず、江戸城では大広間に詰め所を持っていた森家は雁間という小大名の詰め所に移された。
また、これとは別に森家の支藩であった関長治の領地も存続を認められて備中国新見に1万8千石を与えられて転封となった。
 長継は哀れにも森家の全盛期を見つめ、その落日までを見届けたのである。彼はそのショックで病となり、西江原の領地に赴くことなく、翌年に江戸で死去した。長継の領地は彼の8男、長直が相続し、宗家断絶から8年後、播磨赤穂藩主となって、転封した。
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■三日月森家と久留里森家

三日月城主長俊の息子のうち、長記を後継者とし、光俊を綱吉の側近であった黒田直邦の家臣とした。光俊は光照と改名して黒田家の家老となる。直邦は綱吉に下館城を与えられるが、彼は綱吉の側近であるため城に行くことができず、光照を城代として派遣した。
光照の子光仲の時、黒田家が久留里に新たな領地を与えられて城を築くとき、森家の築城技術を買って彼を築城の監督者とした。また光仲の臨終に際しては、本家の三日月城主から領主専属の医師が派遣され、手厚い擁護を受けた。その後も代々黒田家の家老となり、また馬術を得意としたため、歴代の当主には江戸城に呼び出されて将軍に馬術を教えた者もいた。これは偶然であるが、12代目の当主森茂のとき、1951年に船橋に競馬場が開設され、森厩舎が創設された。
このように、元禄10年に森宗家は断絶したが、赤穂・三日月・久留里など、森家の分家は現代まで続いた。
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