トップページ >> 森家の歴史 >> 7.外様大名としての森家
森家の歴史

(江戸時代初期・17世紀)
外様大名は「一国の大名 = 一族の繁栄を保障」ではありませんでした。幕府の外様冷遇政策から逸脱するための足固めに忠政は勤めます。

■森家の居城、津山城

 森家は代々、建築技術の得意な家臣が多くいた。美作国を与えられた忠政は、その首都・津山に諸大名に自慢できる城を建築しようと計画し、彼の友人であった細川忠興が当時小倉に巨大な城を建築ばかりで、忠政はこれを勝る城を造ろうとして 設計師や家臣を極秘で小倉に派遣した、小倉の海上に浮かべた小船で城の測量などをしていたところ、小倉藩士に発見されて、スパイとして囚われてしまうが、忠興は彼らが忠政の家臣であることを知ると、笑って彼らを許し、城内を案内した上に、設計図を与えて帰国させた。そして津山城が完成すると、忠興は忠政に西洋式の釣鐘をプレゼントした、この釣鐘は現在も大阪の博物館に保管されている、忠政が美作に入国した翌年の1604年から12年の歳月をかけて造営された 最も高い天守閣は27メートルあり、5層建てであった。城内には77の建物と50の門、内部には領内の重要施設や重臣の館を建て さらに天然の川を掘にした。しかし、現在津山城は城郭のみが残り御殿や天守閣は残っていない。
明治政府によって旧幕府軍など、反乱者の牙城となることを防ぐために1874年に解体されたからである 

■徳川一門となる森家

2代将軍の徳川秀忠の養女、亀鶴が忠広の妻となった。この亀鶴は前田利常の長女であったが、秀忠の養女となって江戸城に住んでいたのである。忠広は忠政の息子で 彼が徳川家の娘と結婚したことで、森家も徳川家の一族となった。 森家の繁栄は保障され、儀礼的な格式も上がったが、この妻は僅か2年後に病死してしまった。 身分の高い妻を迎えた忠広は一気にそのプレッシャーから解放され、政治を忘れて遊びつづけたが、徳川家から忠広が妻の死を喜んでいるように思われるのを恐れた忠政は彼を藩邸内に監禁した。
ところが、監禁後まもなく忠広も病死してしまい、亀鶴を通して義兄となっていた3代将軍の徳川家光は監禁した忠政を江戸城に呼び出して叱責します。
 跡継ぎを変死させてしまった忠政は、森家の家臣にと継がせていた娘の子、つまり孫の関家継を津山から江戸に呼び出して跡継ぎに任命します。家継は森長継と改名して森家の養子となった。

■忠政の謎の死

 その後まもなく、将軍家光は天皇に会うために江戸から京都へ向かうにあたって、忠政を京都へ先行して準備をするように命じた。病気だった忠政は一旦はこれを辞退するが、家光はこの任務が終わったら、美作国をさらに領土の広い石見国と伯老国の2国と交換する条件を出してまで頼み込んできた。18万石の領土が30万石となり、兄長可の遺領を上回る領土であるため、忠政は病を押して京都へ向かった。
 しかし、忠政は京都の商人の家に招かれて桃を食したところ 急に腹痛を訴え急死してしまった。これは家光が京都に到着する3日前であった。
 京都の二条城に到着した家光は、直ちに長継を呼び出して森家を継ぐ事を認め、長継は2代藩主に就くことができた。しかし、忠政の死去もあって、領地交換の話は立ち消えてしまったという。
このためか、家光が忠政を毒殺しようとしたという説もある。

※森家先代実録では、将軍家から石見国と伯老国の2国を賜る内々の打診があり、森家で下見をしたところ、あまり魅力的ではなかったということで辞退したとされている。

6.国主大名となる森家 8.森家の全盛

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