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三日月藩主森家(三日月家)

⑦森 長篤
(もり ながあつ)
幼名・別名 猪松
官位 従五位下 對馬守 内記
生年 寛政7年(1795)
(於江戸)
襲位 文化5年(1808)8月 養嗣子
文化6年(1809)5月20日
襲封15000石(三日月藩)
没年
文化13年(1816)8月23日
(22歳・於江戸)
継承者 養子・森長国
(実父は先代藩主・森長義
墓所 池上本行寺
法名
(戒名)
長篤院殿鶴林日山大居士


(続柄)
赤穂藩主・森忠賛
(11男)

(実父)
不詳
養子
(実父)
養子・森長国
先代藩主・森長義の長男


森長篤筆扇面
(個人蔵)

森長篤墓所
(池上本行寺)

竿柱の鶴丸紋
(池上本行寺)

香炉台の桐・鶴紋
(池上本行寺)
※墓碑調査は関係者のご協力を得て、森家史料調査会によって行われたものです。また、掲載史料図版については、収蔵者の許諾を得て掲載をしています。
人物紹介
三日月藩の第7代藩主。

【出自】
父は赤穂藩主森忠賛で、その11男として寛政7年(1795)に江戸で生まれた。幼名は猪松、赤穂藩主森家は森宗家である津山藩主森家が改易後、宗家格として保ってきた家で、三日月藩主森家とは本家・分家の関係である。

【三日月家への養子縁組】
長篤の兄・忠敬や忠哲は赤穂藩主を継いでいるが、長篤は三日月藩6代藩主・森長義に嫡子がいなかったため、その養子として三日月藩主森家に入った。そして享和元年(1801)、長義の隠居を受けて家督を相続し7代藩主となった。これにより、長俊を藩祖とする藩主の血統は一旦途絶える形となる。(系譜参照)

【長篤の早世】
しかし、長義が隠居した翌年、長義に嫡男・長国が生まれる。
公称で15歳の長篤にはまだ嫡子がおらず、そのまま文化13年(1816)に22歳の若さで死去し、池上本行寺に葬られた。これを受けて長国が長篤の嗣養子となって、三日月藩8代藩主となった。

【血統の復活】
長国は初代長俊の来孫(曾孫の孫)に当たるため、三日月藩主森家としての血統は復活する。

血縁系図

関係資料
三日月藩日記
森氏雑話
三日月町史(旧佐用郡三日月町)
森家先代実録
池上本行寺墓碑碑文
個人蔵古文書資料

関係記事

歴代当主 西暦 主な出来事 備考
※2




















1795
寛政7年
森長篤、播磨国赤穂藩主・森忠賛の11男として生まれる(後の7代藩主)
藩主・森快温、私財を投じて藩校「廣業館」を設立
1歳
1797 寛政9年2月4日
森俊韶、江戸で死去。享年48歳
3歳
1801 享和元年9月27日
森快温、領国の三日月で死去。享年33歳。
森長義が家督を継ぎ、6代藩主となる。
6歳
1806 文化3年6月4日
森俊春江戸で死去。享年81歳
11歳
1809 文化6年5月20日
森長義隠居。森長篤が家督を継ぎ、7代藩主となる。
14歳




1810 文化7年
森長義の長男・森長國生まれる。(後の8代藩主)
15歳
1816 文化13年8月23日
森長篤、江戸で死去。享年22歳。
先代長義の嫡男・森長國が家督を継ぎ、8代藩主となる。
22歳
※1 出典:森家史料調査会編「森一族の呼称について」2004年版、 「森家年譜」。
※2 年齢は幕府届出による公称年齢を基にしています。


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